「雄勝花物語」は、3・11の津波で壊滅した雄勝町を「花と緑の力」で復興するために、被災した住民が立ち上げた復興プロジェクトです。始まりは、雄勝町出身でプロジェクトの代表である徳水利枝さんが、津波で流された実家の跡地に花を植えたことでした。その後、住民やボランティアが花を増やし、企業の協力も得て、「雄勝ローズファクトリーガーデン」という形で徳水さんの思いが一つの形になりました。復興道路工事の関係で、2018年3月に背後地に移転・再開しています。モリウミアスとは震災直後から繋がりのある徳水さんに、地元在住者ならではの視点で、雄勝のこと、こどもたちへの思いなどを語っていただきました。

雄勝の未来のために、故郷と人が繋がる場所を残したい

――「雄勝ローズファクトリーガーデン」(以下、ローズガーデン)が今のような形になったのは、さまざまな方の努力があってのことだと思いますが、いちばん最初に徳水さんがご実家の跡地に花を植えられた理由は何だったのでしょうか。

雄勝は昔ながらのまちなので、周辺に住んでいるのはほぼ親戚でした。私は母や叔母を震災で亡くしましたが、亡くなった人に対して何もできていていないことがずっと気がかりでした。そこで、震災直後に主人と私は、一時住んでいた石巻駅近くの借家を出て、雄勝に戻ろうと決めました。

何もかもが津波で流され、周りは瓦礫の山と茶色一色でした。この色のない景色がいつまでも続くのは嫌だなと思って、花を植えたんです。最初の思いはそれだけだったのですが、植えるうちに一つの思いが生まれました。

震災後に雄勝を離れた多くの人が、お墓以外のものをなくしました。昔は親戚の家のお墓や仏壇に線香を上げたら、世間話をして帰ってくるのが亡くなった方との関わり方でした。でも、お墓以外に足を止める場所がなくなるのは、亡くなった方に対して申し訳ないと思ったのです。そこで、震災を境に雄勝に住めなくなった人はもちろん、こどもたちが大人になってお墓参りに戻ってきたときに、足を止める場所=「故郷と人を繋ぐ場所」を花畑という形で残したいと考えました。

――それがローズガーデンの始まりだったのですね。

雄勝は震災以降、16分の1にまで人口が減りました。ローズガーデンをつくるにあたって、震災直後から沿岸部の緑化支援をしていた鎌田秀夫さんという造園のプロの方に、私から連絡をとったんです。鎌田さんに、「〈被災地だからこの程度でいい〉ではだめ。被災地であってもこれだけのものがつくれることを示していかないと、人は集まらなくなるよ」と言われました。それから、大規模な土入れや植栽、除草まで、鎌田さんをはじめ地元の人、全国から集まったボランティアの方々に協力してもらい、なんとか形にすることができました。

今ローズガーデンは体験教室やセミナーのほか、雄勝の森・川・海の生態系の繋がりを活かした環境教育の場にもなっています。どんな使い方でも構わないんです。「ここはこういう場所」という看板をもたない、誰もが自由に使える場所であってほしいというのが私の願いです。

――まだ復興の途中ですが、雄勝のまちが今後どのようにあればいいと思いますか?

雄勝を離れた人々の意向調査を見ても、「戻りたい」と答える人は少なく、人口が増えることは今後見込めないと思っています。もちろん人口増になればいいのですが、それが望めないならどうするのかという視点をもつことが、まちを存続させるためには重要だと考えています。それはおそらく、日本の色々な限界集落がこれから向かう方向であり、課題です。人口増だけが得策ではないという新しい成功事例を、雄勝でつくれたらいいですね。

こどもに目いっぱい愛情を注ぐことが大人の役目

――モリウミアスとの繋がりを教えてください。

私はずっと雄勝町で学習塾を経営していたので、震災後は避難所でこどもたちの勉強をみていました。そのときに、雄勝中学校でこどもたちに勉強を教える「放課後塾」を一緒にやりませんか? と声をかけていただいたのがモリウミアスとの出会いです。2011年〜2016年まで、ローズガーデンの取り組みと並行しながら放課後塾を続けていました。

私が講師を辞めてからは、モリウミアスを訪れたこどもたちがローズガーデンでガーデン作業や畑仕事を体験したり、私が語り部となってこどもたちに震災当時の話をすることもあります。

――震災の話からは、こどもたちにどんなことを感じとってほしいですか?

こどもの年齢は小学生から高校生まで幅広いのですが、特に津波の話を聞いて「怖い」という感情をもつこどもたちが多いです。あるとき、語り部のあとにモリウミアスの漁業体験プログラムが入っていたようで、「漁業体験に行く前じゃなく、帰ってきてから話を聞けばよかった。これから海に出るのが怖い」と言ったこどもがいました。そんなとき私は、「怖い思いはした方がいい」と伝えています。

ローズガーデンの近くに、以前私の主人が務めていた雄勝小学校があったのですが、震災時に学校にいたこどもたちも教師も全員、危機一髪のところで助かりました。なぜなら、1人の母親がなかなか避難を始めなかった学校側に、「こんなところにいたらこどもたちが危険だから早く逃がせ」と大声で叫んだのです。その母親は、小さい頃から親に「津波はおっかないもの」だと教えられて育ってきたそうで、そのことが全員が助かる大きなきっかけに繋がりました。だからこそ、こどもたちには危機管理の意味も込めて、自然に対して「怖い」という感情を抱くのは悪いことではないと伝えているのです。

――雄勝のこどもたちも含め、次世代を担うこどもたちのために大人ができることはなんだと思いますか?

私が雄勝のこどもたちに思うことは、とにかく「大事」しかないです。雄勝はこどもの数が本当に減りましたから、そのこどもが将来こうしたいと言えば、残っている大人で全面的に応援したいと思っています。地元で育って社会に巣立つ子を見ていると、まちの人に大事にされた記憶が、何かを決める際に後押ししていると強く感じることがあります。

例えば雄勝で育って、高校卒業と同時に雄勝のまちづくりに関わりたいと、モリウミアスに就職した女の子もいますし、私の娘も、将来雄勝のまちの役に立ちたいからそのための力をつけたいと、ローズガーデンの支援をしてくれた鎌田さんの会社に就職しました。考えてみると、娘にそうした素養があったわけではなく、震災後に周りの大人たちにたくさん可愛がられたからだと思うんです。私と一緒にローズガーデンの手伝いをするうちにみんなと顔見知りになり、大事にしてもらって、自分もこのまちのために何かしたいという思いが自然と芽生えたのでしょう。

被災者の立場になってみて強く感じましたが、悪意はないとはいえ、丁寧に扱われないとやっぱり人は傷つくし、辛いのです。だからこそ、大人はこどもを大事にしてちゃんと可愛がる、そしてこどもは大人に大事にされていることを実感する。丁寧に育てれば、こどもはすくすくと真っ直ぐに育ってくれます。私たちがこどものためにできることは、それに尽きるのではないかと思います。

徳水利枝
宮城県石巻市雄勝町出身。一般社団法人 雄勝花物語代表理事。雄勝町で個人塾を経営していたが、震災以降は復興プロジェクト「雄勝花物語」を立ち上げ、「雄勝ローズファクトリーガーデン」の設立に奔走。その様子は「奇跡のガーデン・雄勝花物語」として、NHK総合テレビのドキュメンタリー番組で取り上げられる。「人と繋がり希望を紡ぐ」をモットーに、持続可能なまちづくり、地元での雇用創出を目指し、雄勝花物語は現在も進行中。